エッセイ

締め切り

 新聞に「父の締め切り」と題したこんなコラムが載っていた。
 「この人にこそ読ませたい」――長い経験をもつ辣腕の新聞記者にも、ときには格別なる思いをこめて記事を書くことがあるという。筆者が病床の父に見せたい一心で、渾身の力をこめて書かれたその記事が大きく掲載された朝、筆者の父は死んだ。
 わずか数時間差で記事は間に合わなかった。あとほんの数時間で朝刊は届いたのに……。「長い記者生活のなかで、『読み手の締め切り』に遅れてしまったことを、このときほど強く悔やんだことはない」と筆者は結んでいた。
 このコラムを読んだとき、私の中を一つの記憶が駆け抜けた。ある3月に急逝した著名な声楽家のことである。声楽家としてだけでなくグルメでも名を轟かせていたこの方のエッセイを、私は仕事で手掛けていた。超多忙なスケジュールをぬって打ち合わせをしたその2日後に、その方の訃報を聞いた。
 楽しみにしていた本の完成を見ることなくその方は逝った。どんなに苦労しても、間に合わなければ何にもならないのだということを、このときほど痛感したことはない。
 顧みて人生には、いたるところにこの記者のいう「読み手の締め切り」があるのではないか。そして漫然と生きている時には、この「締め切り」を過ぎたことにさえ、気がつかずにいるのではないかと思う。
 たとえば一輪の花を活けること、たった一通の葉書を書くこと、一人のひとに逢うこと……そんな小さな一つひとつが「人生の締め切り」であって、自分やまわりを変えていくのではないだろうか。

   (信濃毎日新聞2002年3月14日朝刊掲載)

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余白の音楽

 半年間にわたる連載も、今回で最終回となった。最後に、私と俳句との出合いについて書いてみたいと思う。

      *     *

 私と俳句との出合いは、一般的な出合い方とは異なるかもしれない。というのも、私は俳句を作る前に俳句雑誌の編集者であり、ミイラとりがミイラになったようなものなのだ。
 けれども、そのような環境下にあったおかげで、俳句に関する情報は豊富だったし、高名な作家の先生方ともじかにお目にかかる機会を得ることができた。思えば、俳句に関するスタートは、幸運であったといえると思う。
 俳句を作ってみようと思った直接のきっかけは、「俳句を作る大変さ」を自分も味わわなければと思ったことである。作る辛さも知らず安穏としていることに、ある種の後ろめたさを覚えたのかもしれない。
 そんな私が作る俳句は、音楽にまつわるものが多かった。幼いころからピアノを弾き、学生時代からは、趣味として、オーケストラで弦楽器を弾いている私の身のまわりには、いつも音楽があったのだ。

  トランペットの一音#(シャープ)して芽吹く

  雛の夜管楽器みな闇を持ち

  クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜

 アメリカの作曲家・ジョン・ケージは、『沈黙』という本の中で、音の鳴っていない部分にこそ、真の宇宙の音楽があると語っている。この「余白の音楽」こそ、まさしく俳句と音楽の通底するところであろう。
 また、俳句と同様、音楽もたいへん裾野が広い芸術である。俳句の大衆性については、論議されることも多いが、純粋に楽しむ愛好家たちがあってこそ、支えられている部分もあるのではないかと思う。
 さて、これから俳句はどのように変わっていくのだろう。そんなことを話し合うために、この週末は、京都で行われるシンポジウムにパネリストとして参加する予定である。

  無伴奏組曲夜の枇杷太る

    (信濃毎日新聞2002年6月20日朝刊掲載)

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父というもの

 6月の第3日曜日は父の日である。私にも父がおり、その父にもまた、今年97歳になる父が、離れた土地で暮らしている。そのはるかなる父と息子を思うとき、私の中をあるエッセイの一節が駆け抜ける。それは井上靖のエッセイで「父の死」について書かれていた。

      *     *

 「… 父が亡くなってから、私は初めて自分の死というものを考えた。父が生きている時は、父親でさえまだ生きているのだからといった気持で、自分の死など考えることはできなかった。ところが父親に亡くなられてみると、初めて遠くの方に死の海面が見えて来た。もう父親も亡くなってしまった。次は自分の番だといった、そんな思い方で、遠くの方に死というものが、青い海面のかけらでも見えるように見えて来たのである。
 私は父に亡くなられて初めて、自分が父親によって、死というものを考えることから守られていたことを知ったのである。死と私の間に、父親という屏風があって、私に死というものを見させないでいてくれたのである…。(『わが一期一会』毎日新聞社より)

      *     *

 さて、今日は「父の日」にちなんで「父の句」をご紹介したい。

  逝くために父となりしか栗の花  柚木紀子

 印象鮮明な句である。作者の父は先の大戦で、大空襲の中、火の海に呑まれたという。

  父病めば空に薄氷あるごとし   大木あまり

  つややかな管つけ父は朧なり   櫂未知子

 病にある父を詠んだ句。

  錦木の仙骨となり父を愛す    寺井谷子

  父恋し濤に歌留多のちらばりて  八田木枯

 「父恋」をストレートに詠んだ句も多い。

  父がつけしわが名立子や月を仰ぐ星野立子

 立子の父は高浜虚子であった。17文字の中に、父へのさまざまな思いがこもる。

   (信濃毎日新聞2002年6月6日朝刊掲載)

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証言・昭和の俳句

 俳句総合誌「俳句」(角川書店)では、5月号で「昭和俳句を見直す」との大特集を組んでいる。昭和27年に創刊され、つねに戦後俳句とともにあった「俳句」は、次号6月号で創刊満50年となる。
 そんなおりしも、『証言・昭和の俳句』(上・下)が出版された。本書は黒田杏子氏のインタビュー構成によって、同誌に平成11年1月号から翌年6月号までの1年半にわたって連載されたもので、激動の昭和を駆け抜けてきた13人の俳句作家たちの実体験に基づくエピソードが肉声で語られている。
 収録作家は金子兜太・桂信子・鈴木六林男・佐藤鬼房・中村苑子・三橋敏雄・古沢太穂・沢木欣一・津田清子・成田千空・草間時彦・深見けん二・古舘曹人の各氏。それらの作家たちに向かい、聞き手の黒田杏子氏は、まさしく全身全霊で取材にあたっている。
 たとえば金子兜太の章だけでも、生きた昭和俳句を語るのに十分な内容である。まだ10代の頃の「成層圏」での竹下しづの女との出合い。加藤楸邨との出合い、同門の沢木欣一・森澄雄らのこと。若い兜太が見る等身大の中村草田男、その後の草田男との論争。そして「第二芸術」論、現代俳句協会の分裂等々…。
 さらに三橋敏雄・鈴木六林男が語る西東三鬼、京大俳句事件。その事件に絡む三鬼の名誉回復裁判の舞台裏…。当時者しか語れない事実が、証言者みずからの声で語られている。
 いっぽう同時代を生きた女流・桂信子の生きざまもまた、ドラマに満ちている。大空襲で家が焼けてゆく中で、とっさに懐に入れて逃げた、のちの『月光抄』の句稿。
 すでに証言者13人のうち5人は鬼籍に入り、「証言」は「遺言」となってしまった。
 「生きた昭和俳句史」を知るために、俳人のみならず、歌人の方にもぜひ読んでいただきたい一書である。

   (信濃毎日新聞2002年5月23日朝刊掲載)

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母の日

 今度の日曜日は、一年中で花屋さんがもっとも忙しい母の日である。
 母の日にまつわる由来は諸説さまざまあるようで、その起源は、ギリシア神話の中の神々の母・ルアーを讃える春祭や、1600年代、イギリスで祝われていた「母なる日曜日」(Mothering Sunday)まで遡る。
 しかし、現在日本で一般的に行われている「母の日」は、1908年アメリカのアンナ=ジャーヴィスさんによって創設されたといわれている。
 病弱な母を亡くしたジャーヴィスさんが、母の追憶を蘇らせ、その愛情を讃えるべく、母の命日にちなんだ5月に、一抱えの白いカーネーションを礼拝に持参し、みんなに分けたのが始まりであるという。その後、この話が反響を呼び、1914年、当時のウィルソン大統領によって、5月の第2日曜日が「母の日」として定められたのである。
 日本でも、大正時代から教会の礼拝などで母を讃える催しが行われていたが、戦後、アメリカに倣って5月の第2日曜日が「母の日」となった。
 ところで、俳句において「母」はどのように詠まれているのだろう。

  野を焼いて帰れば燈下母や指し 高濱虚子

 虚子が詠んだ「母」の句である。偉大なる虚子のお母さんとは、どのような方だったのだろうか。

  夏の山国母いてわれを与太とゆう 金子兜太

 兜太らしいおおらかな句。母親にとっては、子供はいつまでも子供なのである。
 野澤節子には母を詠んだ句が多い。14歳のときにセキツイカリエスを患い闘病生活を続けていた節子にとって、ことさら母との絆は深かったのだろう。

  寒卵わが晩年も母が欲し 野澤節子

  蜩や母ありてこそ帰りくる 同

 母への深い思いが、時代を超えて句の中に生きている。

   (信濃毎日新聞2002年5月9日朝刊掲載)

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朗読する歌人たち

 ここのところ、俳句・短歌における朗読ということについて考えている。短歌は「朗読する歌人たちの掲示板」などのサイトもあり、朗読も、俳句に較べてずいぶん盛んなようである。
 先日、横浜であった「岡井隆の朗読会・朗読する歌人たち」へ行ってきた。4年前に歌人の岡井隆氏が開いたもので、12回目を数える。毎回テーマを決め、ゲストを招いているこの朗読会、最初は参加者も少なかったが、回を追うごとに増えているという。
 今回の出演者は、岡井隆、石井辰彦、飯田有子、そして昨年12月まで当欄を担当した穂村弘の各氏。テーマは「恋」。前半はおのおのが選んだ東西の恋の詩を朗読、後半はこの会のために書き下ろした作品を朗読する構成になっている。
 各新作は、一般的な「恋」のイメージとは異なる「ひねり」があった。たとえば、「最近樋口一葉にはまっている」という岡井氏の、「樋口一葉、ウサマ・ビン・ラディンに会ひにゆく」というタイトルの連作。「明智小五郎と怪人二十面相は、じつは濃密な関係にあったのではないか」という穂村氏の、「明智小五郎と怪人二十面相の恋」等々。
 ところで、活字・電子メディア主流の今、なぜ「朗読」なのか。伊藤比呂美の詩を今回朗読した飯田有子さんは、「声に出すとうっとりする」という。
 詩と朗読は、いうなれば作曲家と演奏家の関係。どんなに素晴らしい曲でも、演奏家が作曲家の意図を汲みとり表現できなければ台無しになってしまうし、逆に演奏家が楽譜の「行間」を読みとり、楽曲にいのちを吹き込むことによって、作品は人為を越え、無限の広がりをもって響いてくるのである。
 また、朗読は読み手と聴き手のナマの関係であるから、読み手の技量(レベル)に加えて、聴き手のレベルの問題もある。
 3月には佐久市で「朗読火山・俳」があり、盛況であったと聞いている。新しい時代の「朗読」が、今後どのような形で広がり根づいていくのか興味深い。

   (信濃毎日新聞2002年4月25日朝刊掲載)

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オルゴール

 二夜にわたってラジオに出演する機会があった。「オルゴールは春の調べ」と題する90分番組で、東京・目白の「オルゴールの小さな博物館」館長・名村義人氏をゲストに、世界のオルゴールの名品を聴くという、早春にふさわしい番組であった。
 出演者は名村氏と私、司会のNHKアナウンサー、それに1日交替でオルゴールメーカー・企画開発の上島正氏、フリーアナウンサーの押 阪忍氏。2日間の番組中私に与えられた役割は、オルゴールの名曲を聴きながら、その場にふさわしい俳句を作るというものだった。
 オルゴールといえば、私には大切にしているオルゴールがある。箱型の小さなオルゴールで、蓋の上には、大粒のルビーを思わせる真紅の飾りがついている。父の転勤による引っ越しで、仲の良かった友達と別れなければならなくなったとき、記念にもらった、私の最初の「メモリアル・オルゴール」である。
 曲は「禁じられた遊び」。まだ子供だった私は、眠りにつくとき必ずこのオルゴールをかけた。螺子いっぱいに巻いた軽やかなメロディーがしだいに緩やかになって止まるとき、私は眠りの中にいた。
 放送中にオルゴールにまつわる思い出を求められたとき、私はそんな話をした。
 その後、私の「メモリアル・オルゴール」は少しずつ増えていった。誕生日に両親からもらったオルゴール、大学卒業記念のオルゴール……。曲もトロイメライ、白鳥の湖、エーデルワイスと懐かしい曲ばかりである。
 私は淋しいときや悲しいとき、家じゅうのオルゴールを一度に鳴らすことがある。そんなとき、私はオルゴールのメロディーを聞いているのではなく、オルゴールの透明な音の空間に身を置き、心を癒しているのかもしれない、と思う。
 「オルゴールは心に風を送る」――番組中の名村さんの言葉が今も胸に残る。

  北窓を開きねぢ巻くオルゴール 聡子

   (信濃毎日新聞2002年4月11日朝刊掲載)

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雛紀行

 雛祭は、東京では陽暦で行うが、地方によっては、陰暦または4月3日に行うところが多い。そんなお雛さまを訪ねて、九州・日田へ行ってきた。幼い頃に贈られたお雛さまを今でも大切にしている私は、毎年桃の季節になると、その土地土地に伝わるお雛さまに会いに行きたくなる。
 日田は大分県の西部に位置し、久留米や長崎、熊本、別府へ通じる交通の要衝。江戸時代には、幕府の天領として九州随一の繁栄を極めた町である。
 その日田市において、毎年2月15日から3月31日までの雛祭期間中、旧家に残る絢爛豪華な雛人形や雛道具が一挙に公開されている。
 天保年間の雛飾りがある広瀬資料館など、日田には歴史あるお雛さまが数多く存在するが、なかでも圧巻なのは、製蝋商として栄えた草野家の壇飾りであろうか。
 20畳の座敷いっぱいに飾られる雛壇は、高さ180センチ、総間口360センチの大掛かりな御殿飾りである。御殿は檜材の白木造りで、江戸末期、大工に特別に作らせ誂(あつら)えたものといわれている。
 御殿正面上段の間には内裏雛、次の間には七人官女、右手には能舞台があり、舞楽が奏でられている。階をはさんで庭上左右には左大臣、右大臣。玄関には侍たちが、到着の行列を出迎えている。その他、草野家では歌舞伎の名場面、蹴鞠、曲水の宴などのお雛さまも飾られ、総勢178体の見事なものとなっている。
 また材木商の後藤家には、6年前に公開したばかりの秘蔵の御殿雛がある。このお雛さまは、京都の御雛人形司・2代目大木平蔵の作であるが、なんと60年ものあいだ土蔵に眠っていたという。
 珊瑚を散りばめた天蓋をかむり、眠りから醒めたばかりのお雛さまは、優雅でふくよかな気品に満ちている。筑紫野に夕日が落ちていく中、いつまでも飽かず眺めていた。

   (信濃毎日新聞2002年3月28日朝刊掲載)

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兆し

 草木が芽吹くいのち溢れる季節――その新しい季節にふさわしい詩歌の雑誌が創刊された。その名は「草蔵」。
 「ねがわくは句と歌と詩の言葉が草ほどの光栄を纏うてわれらが書の蔵に入らんことを」――との開扉の辞からも読み取れるように、「草蔵」は、まさに詩・短歌・俳句の壁を越えた詩歌の総合誌である。
 詩歌を総合的に捉えた雑誌としては、「花神」(花神社)、「鳩よ!」(マガジンハウス)などが思い出されるが、いずれも現在は休刊。詩歌の総合誌がいかに商業ベースとして難しいかを物語っている。
 さて、今回創刊された「草蔵」は、いわゆる商業誌とは異なるが、代表者・編集人みずからが詩を作り、短歌を作り、俳句を作り、熱い詩論を展開している。ここに今までの雑誌とは異なるこの雑誌の特徴と魅力がある。
 代表者の佐々木六戈(ろっか)氏は昭和30年生まれ。平成11年に角川短歌賞を受賞。氏は同年の角川俳句賞の最終選考にも残った異色の人。
 当時の授賞式で、氏はこう語る。
 「私は俳句も短歌もなまなかな気持ちでやっていません。俳句と短歌に自分自身を挟みうちさせるように、志をもって作っているつもりです」
  いっぽう編集人・境野大波氏は現役の編集者。新誌では詩の選者を務めるが、その該博な知識と交遊が、雑誌の多彩さと豊かさになって表れている。
 氏は編集後記でこう語る。
 「(21世紀になって)確かに何か新しい胎動のはじまっている気配がする。後退に後退を強いられてきた詩歌・俳句の世界に於いてさえも」。
 春になって厚い氷が解けてゆくように、ジャンルを隔てていた厚い壁も、少しずつ解けはじめているのかもしれない。

   (信濃毎日新聞2002年2月28日朝刊掲載)

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バレンタイン・デー

 立春を過ぎると、ターミナル駅の地下道には色鮮やかなチョコレートの出店が並ぶ。最初は人だかりもまばらであるが、バレンタイン・デー前日ともなると、大量にチョコレートを買い込む若い女性たちでごった返す。
 バレンタイン・デーの由来については、毎年この季節になると新聞や雑誌のコラムに散見されるが、その名前の由来は、3世紀頃ローマに実在したキリスト教司祭・聖バレンタインへ遡る。
 当時皇帝クラウディウス2世は、兵士たちが家族を想い士気が落ちないよう結婚を禁止していたが、聖バレンタインは結婚をのぞむ兵士たちにひそかに力を貸し、結婚式をとり行った。このことが皇帝の知るところとなり逆鱗にふれ、さらに高まるキリスト教迫害とあいまって処刑されたという。この処刑の日が2月14日であったことから、聖人の愛深い姿を記念して、のちにこの日に恋人同士が贈り物を交換する習慣になったと伝えられる。
 バレンタイン・デーには、個々の思いがそれぞれあろう。
 「ぼくはバレンタインとクリスマスが嫌いです」とはっきり言い切った青年がいた。
 「義理チョコ」の織りなす「バレンタイン模様」もさまざまだ。勤めていた出版社で、女性編集部員が贈ったチョコレートを「つまらないものですが」と言って、衆目の中来社した著者の先生にあげてしまい(先生は再三辞退されたのだが)、皆の総スカンをくった編集長がいた。また、知り合いの保険会社の支社長は、たった一人の女性の部下がチョコレートをくれないことについて、「義理もないのか」と言って憤慨していた。
 日本では女性が男性にチョコレートをプレゼントするのか一般的であるが、西洋では男女双方が想いをよせる人にカードを添えて贈り物をするという。義理チョコなどは、もちろんない。
 ちなみにお隣の韓国では、4月14日を「ブラックデー」として、バレンタインの告白に失敗した人たちが、黒い服を着てジャージャー麺を食べるのだそうだ。

  黒きハートヴァレンタインのチョレート  山口青邨

   (信濃毎日新聞2002年2月14日朝刊掲載)

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