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余白の音楽

 半年間にわたる連載も、今回で最終回となった。最後に、私と俳句との出合いについて書いてみたいと思う。

      *     *

 私と俳句との出合いは、一般的な出合い方とは異なるかもしれない。というのも、私は俳句を作る前に俳句雑誌の編集者であり、ミイラとりがミイラになったようなものなのだ。
 けれども、そのような環境下にあったおかげで、俳句に関する情報は豊富だったし、高名な作家の先生方ともじかにお目にかかる機会を得ることができた。思えば、俳句に関するスタートは、幸運であったといえると思う。
 俳句を作ってみようと思った直接のきっかけは、「俳句を作る大変さ」を自分も味わわなければと思ったことである。作る辛さも知らず安穏としていることに、ある種の後ろめたさを覚えたのかもしれない。
 そんな私が作る俳句は、音楽にまつわるものが多かった。幼いころからピアノを弾き、学生時代からは、趣味として、オーケストラで弦楽器を弾いている私の身のまわりには、いつも音楽があったのだ。

  トランペットの一音#(シャープ)して芽吹く

  雛の夜管楽器みな闇を持ち

  クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜

 アメリカの作曲家・ジョン・ケージは、『沈黙』という本の中で、音の鳴っていない部分にこそ、真の宇宙の音楽があると語っている。この「余白の音楽」こそ、まさしく俳句と音楽の通底するところであろう。
 また、俳句と同様、音楽もたいへん裾野が広い芸術である。俳句の大衆性については、論議されることも多いが、純粋に楽しむ愛好家たちがあってこそ、支えられている部分もあるのではないかと思う。
 さて、これから俳句はどのように変わっていくのだろう。そんなことを話し合うために、この週末は、京都で行われるシンポジウムにパネリストとして参加する予定である。

  無伴奏組曲夜の枇杷太る

    (信濃毎日新聞2002年6月20日朝刊掲載)

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