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『音、沈黙と測りあえるほどに』武満徹

 その頃私は、ほぼ毎週のようにコンサートへ出掛けていた。華やかなクラシックのコンサートが多かったが、たとえば築地本願寺・国立劇場・セゾン劇場などで開かれる、実験的な現代音楽のコンサートにもよく出掛けた。そして、そうした現代音楽のコンサート会場には驚くほど小柄な、異星人のような風貌の武満徹を会場でいた。まだ大学生の頃、俳句を始めるずっと前のことである。
 武満徹は、96年に亡くなったが、琵琶や尺八を交響曲に取り入れた代表作「ノベンバー・ステップス」などで知られる世界的な現代作曲家である。また、「砂の女」(勅使河原宏監督)「乱」(黒澤明監督)など、90本以上の映画音楽を手掛けている。本書はその武満の1960から70年にかけてのエッセイを纏めたものであり、初版は1971年となっている。
 この本は私の愛読書の一つであるが、驚くことは、初版から30年以上経った今読んでも、まったく古さを感じないということである。読むたび新たな発見がある。時折思い出したように繙いているが、俳句に向き合うようになった今、俳句の問題として考えるべき箇所にずいぶん出合う。
 「私は音楽と自然とのかかわりについて、いつも考えているが、それは自然の風景を描写するということではない。私は時として人間のいない自然風景に深くうたれるし、それが音楽をする契機ともなる。しかし、みみっちくうす汚れた人間の生活というものを忘れることはできない。私は自然と人間を相対するものとしては考えられない。私は生きることに自然な自然さというものをとうとびたい。それを<自然>とよびたい。これは奥の細道に遁れるような行為とは大きく矛盾するのである。私が創るうえで、自然な行為というのは現実というの交渉ということでしかない。芸術は現実との沸騰的な交渉ののちにうまれるものだ。」
 武満は、作曲するうえにおいても、「音」だけではなく、自然について、言葉について、物を見ることについて、表現するということについて、つねに考えている。
 「図式的なおきてにくみしかれてしまった音楽のちゃちな法則から<音>をときはなって、呼吸のかようようなほんとうの運動を<音>にもたせたい。音楽の本来あるべき姿は、現実のように観念的な内部表白だけにとどまるものではなく、自然との深いかかわりによって優美に、時には残酷になされるのだと思う。」
 武満は、音そのものが音を超えて構築する宇宙をみる。それは言葉から言葉以上の世界がひろがる俳句の宇宙と符号する。
 「私は音を組立て構築するという仕事にはさして興味をもたない。私は余分を削って確かな一つの音に到りたいと思う。」―武満 徹

   (俳人読書室 「俳句研究」2001年8月号)

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